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江戸―東京の左官組合の歴史
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江戸-東京 左官組合の歴史
鈴木 光  ものづくり大学特別客員教授 東左連理事 東左職連副会長

東左連のルーツをご存じでしょうか。平成22年に当会が発行した「五十年の歩み」より
鈴木光氏が著した「江戸―東京の左官組合の歴史(東左連前史)」を以下に転載致します。
なお掲載にあたり新たに写真資料を加えました。
東左連50年誌より「東左連前史3」

 「左官職工事業格等級」ともに組合結成時に、規約が制定されており、規約は『掟』(おきて)としている。その掟の根源は、自分の出入り場とする御得意場や領分の守護である。特に、出入り場でのせり合は、厳重に禁止されている。

 これらの掟は古くから存在しており、仲間組織から脈々と受け継がれたものである。主な規約構成は、御得意先をお互いに侵しあわない、請負料金や弟子の賃金設定、親方層の人数を制限し、自由競争の利潤低下を防止し、お互いに生産活動を監視し合うものであった。さらに、一連の規約内容は、縦社会の基本構造である、徒弟制度の発展を促すものでもあった。


大正9年10月1日に東京左官職組合より職人に対 して手間を1円45銭、扶持料を65銭に値下げするこ とを定めた通知書。

かつて、支給する手間は「作料 (手間)」と「飯米(扶持料)」の2本立てであった。

手間の方は腕の善し悪しで変わるが、扶持料である飯 米は差を付けないことが原則とされていた。

 左官における太子講の存在意義は、商人が恵比寿講、鍛冶屋が金山講と称されるものと同列とされる。左官を含め木工や建築関係は、祖師とする聖徳太子を信仰対象とする講≠ニした。
太子講は、聖徳太子が推古三十年(662)2月22日に没した日を講日として定めているところが多い。また、太子講とは別に、弘法大師を信仰対象とする「大師講」があり、月の21日に講を行っているところもある。太子講の日は、職人一同に会し、床の間に太子の掛け軸をかけ、会合前に二礼二拍手一礼をして、太子を拝み、酒食を共にすることが多い。また、太子講は庶民の相互扶助的組織として位置付け、無尽のような金融機関の役割も果たしていた。

 大正期に入り、さらに大きな左官組合組織となって運営されていくが、その糸口となったのが関東大震災である。この不幸な災害が、東京の各所で組合の創設と団結に大きな影響を与えることになる。特に野丁場左官業の組織の強化がなされた。その背景は、関東大震災後の不燃化建築の増加と、請負業 者が雨後の竹の子のように出現し、請負い制度そのものが無秩序の状態になってきたことによる。請負業者競争の激化に伴い、下請け業者間でも若手職人の早期の独立、引き抜き等が起きるようになる。これに憂慮して、野丁場左官のみならず町場左官を含めた組合同士の結束が必要不可欠になり、結果的に組合組織が強固に発展していく。

手塚忠四郎作の「聖徳太子像」。
東左連傘下の東京都左官職組合
連合蔵より。


 左官の組合組織は、東京で明治16年にすでにが設立していたが、各地でも同様な動きがあった。関西での左官組合結成は、京都が早く、明治32年から活動を始めており、大阪が昭和9年に天王寺公会堂で組合創立の発会式を行っている。大阪が組合創設に遅れたことは、従来の町屋左官の集 団と、新勢力の野丁場左官の集団と、明確に二分され、相互の連絡協調が構築しづらい状況であったとされる。そこで、大阪では昭和8年頃から、野丁場左官の代表と町屋左官の代表が協議と折衝を重ね、相互の利害を超えた協定に漕ぎ着け組合結成がなされた。

 このように、日本各地の左官組合は、新しい時代に則した組織を、自分たちの手によって変革してきたといえる。大都市を中心に各地で組織化された左官組合は、さらに全国的な連合会組織となる動きをみせる。昭和12年4月15日には、東京、名古屋、京都、横浜、神戸の左官組合が先駆けとなり、「日本左官業組合連合会」を誕生させる。      
(東左連前史)おわり


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