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江戸―東京の左官組合の歴史
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江戸-東京 左官組合の歴史
鈴木 光  ものづくり大学特別客員教授 東左連理事 東左職連副会長

東左連のルーツをご存じでしょうか。平成22年に当会が発行した「五十年の歩み」より
鈴木光氏が著した「江戸―東京の左官組合の歴史(東左連前史)」を以下に転載致します。
なお掲載にあたり新たに写真資料を加えました。
東左連50年誌より「東左連前史1」

 江戸時代の左官親方は土蔵造りを背景に地域の有力者であり、その数も多かった。幕府は1699年(元禄12)に、有力左官親方である安間源太夫・善太郎兵衛・清水弥次右衛門の3人を幕府壁方棟梁として神田白壁町(現神田鍛冶町)を拝領地とさせた。この地の左官職人は江戸城普請などの国役にしたがい『白左』(しらさ)とも敬称されていた。白左が拝領地とする白壁町を中心として、その外周部の竈河岸(現日本橋富沢町付近)・弁慶橋(現在地ではなく神田岩本町)・鞘町(現日本橋本石町)・橘町(現東日本橋3丁目)にも多くの左官が住んでいた。


 特に山城河岸(現銀座6丁目)に住む左官は黒田・浅野といった大名の海鼠壁を独占的に施工して技も長けていた。江戸の下町では運河網の発達により、搬入路の荷揚地に多くの河岸蔵が建設され、これが火災の延焼防止になり、幕府も積極的に奨励した。土蔵建築を背景に左官は能狂言の曲名で「末広がり」になぞられ、当時、 前途有望な職業とされていた。

 江戸から明治に移行する中、職人が拠り所とする太子講が、徐々に衰えを見え始める。理由としては、明治元年に政府が「商法大意」を発して株仲間の廃止を制定していることによる。「商法大意」の内容 は、株仲間での人数制限・冥加金を廃止するものである。明治5年には、職人教育には最も重要とされている年期奉公にも改革のメスが入れられた。さらに旦那場とする受注形態は建築の請負業が多く出 始めることによって崩壊し始め、職人同士の伝統的つながりに破綻がきた。このように職人たちの生活状況が大きく変貌する中、新しい組合の結成を計ろうとする動きがでてくる。新しい組合組織は、太子講が崩壊することで、太子講を基盤とした組合の創立をさせたり、また太子講がそのまま組合組織に移行することもあった。

 江戸から明治への世情の移りに際して、東京の左官親方たちは、自ずからこの状況を打開すべき行動を起こした。東京都左官工業協同組合の『七十年史』には「左官職工事業格等級其他附属職工等の業格」(以下「左官職工事業格等級」という)が掲載されている。ここに東京都左官工業協同組合の発足履歴は、明治15年(1882)にまで歴史をさかのぼることが分かる。このとき、東京の左官頭領太田次郎、荒井萬平、杉山清吉、川島福之助らは、左官業の将来と時代の趨勢を見て協議し、有力左官業者の賛同を得て組合の結成を計画した。

 明治16年10月16日に、太田等は、府内出火の際に土蔵および目塗り保護に従事することを目的に、警視庁より認可を受け、本部を日本橋浜町に『東京左官職組合』を設立させた。明治19年(1886)4月に、東京左官職組合は左官職である外煉瓦石積職、小舞掻職に職域範囲を拡 大して、『東京壁職業組合』として職から業へと組織と名称の変更を行った。

 明治16年10月16日に、太田等は、府内出火の際に土蔵および目塗り保護に従事することを目的に、警視庁より認可を受け、本部を日本橋浜町に『東京左官職組合』を設立させた。明治19年(1886)4月に、東京左官職組合は左官職である外煉瓦石積職、小舞掻職に職域範囲を拡 大して、『東京壁職業組合』として職から業へと組織と名称の変更を行った。さらに、明治20年の常例会にて、組合上層部は「左官職工事業格等級」・「工事仕様」・「調合表」・「価格表」を起草し、これらを議決・制定し、一般組合員に配布させ励行させようとした。詳細は、「五十年の歩み」に掲載の東京都左官工業協同組合の経歴を参照されたい。

(東左連前史2に続く)
「東京左官職組合申合規則」
左官職工事業格等級が記載
された表紙

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