■2010年10月24日(日)読売新聞より転載 |
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入江長八 鏝が絵筆 壁に浮き出る左官の技
鏝絵名人・入江長八、魚問屋の注文で魚づくしの塗り額をこしらえた。「われながら良い出来」と眺めていたら、むき身売りの若者が言った。
「親方は田舎職人だな。江戸前の鯛は知らないと見える」何を、と怒る長八に「論より証拠、本物を見せてやる」。ひとっ走り河岸へ行った若者が鯛三匹を並べて講釈した。
「これが江戸前、品がいいだろう。網にかかった後カゴで囲われた活鯛は、心配ごとがあるのか面にシワがある。伊豆生まれの鯛は、海岸の岩の貝を突き壊して食べるので、ほら鼻が曲がっている」
聞いた長八、「四十を過ぎて鯛の見分けを知った」と感服。ただちに額を塗り直したとか。戦前、国語の教科書に載っていたという話である。
鏝絵とは何か。「消えゆく左官職人の技 鏝絵」によれば、<壁に鏝でしっくいを塗り上げ、レリーフを描くように浮き彫りの模様を描く左官の技術>。題材は、宝船とか七福神とか。同じ本の中、東大の村松貞次郎名誉教授は「鏝絵連合王国」と題した一文でこう書いている。
<建築主の願いを込め、左官の誇りをうたった見事な民衆芸能で、特にその土俗性が、ときに力強く、バイタリティーに溢れ、ときにユーモラスで、まことに魅力的である>
もともと日本の文化は、生活と芸術が隣り合わせにあったことが特徴だ。浮世絵、造園・・・・・・
明治から大正期にかけて盛行したこの鏝絵も好例だろう。しっくいの壁に造形された色とりどりの立体装飾の、第一人者が伊豆の長八、こと入江長八なのである。
教科書に載ったくらいだから、有名人だったのだろう。
横綱問題で遺恨のあった関取同士の仲裁をしたともされる。出身地の松崎町には、「伊豆の長八美術館」もある。ただ、「そんな評価とは裏腹に、東京での知名度は高いとはいえない」と、研究家の調海明さん(62)。
その調さんが音頭をとったのが、命日の10月8日、墓所のある浅草・正定寺での「墓前祭」だ。
関係者10人ほどの集まりには、長八の子孫、入江修治さん(61)も参加。「物静かで仕事熱心で、金銭にこだわらない性格だった、と聞いています」と話してくれた。とはいえ、若いころは二枚目で、芸事のカンも良かったようだ。
新内語りとして、旅の一座に加わったこともあるらしい。
「女道楽もしたが、今から考えるとばかなこと」とは晩年の述懐だ。酸いも甘いもかみ分けた、いかにも江戸の職人。コンクリートの壁が増え、左官の技を見る機会も減った今の時代、忘れがちな「古き良き日本」の香りがする。
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田中 聡 |
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入江長八の生涯
1815年 現在の静岡県松崎町で出生
1826年 左官・関仁助に弟子入り
1833年 江戸に出る。狩野派の絵を学びながら、左官の仕事に従事
1840年 新内語りで旅芸人一座に一時加わる
1845年 郷里の淨感寺改築工事に参加
1876年 松崎に滞在し、多数の作品を制作
1877年 第1回内国勧業博覧会に出品
1889年 東京・深川で没する |
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■ 参考情報
長八の生涯、エピソードなどについては、伊豆長八作品保存会から出版されている「伊豆長八」(結城素明薯)が詳しい。
また、木蓮社発行の「土の絵師 伊豆長八の世界」(村山宣編)では、図版で長八作品を多数紹介するとともに、荒俣宏氏、井上靖氏らの長八に関する文章を収録している。
「鏝絵」に関しては、小学館発行の「消えゆく左官職人の技 鏝絵」(写真・文/藤田洋三)で、各地方の職人が残した主要作品とともに、その技法が紹介されている。
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